訂正! 一輪の花


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Posted by ねこちゃん on 2001/07/16 17:49:41:

In Reply to: 一輪の花 Posted by ねこちゃん on 2001/07/16 06:48:05:


      #過不足を訂正しました。
     タマちゃん、ごめんにゃ〜あ。

    >『ただ、いまいち「聴く力」というのが分かりません。
    >聴いているつもりなんだけど、
    >答えが話のツボから外れていたりします。』

    聴くとは大変難しいのです。
    だからこそキリストはこう言いました。
    「目のある者は見るがいい、耳のある者は聴くがいい、心のある者は感じるがいい。」と。
    ある者は、言葉を語るその姿勢を見ています。
    ある者は、語る言葉の内容を聴いています。
    ある者は、語られた言葉を超えて、真意を感じ取ります。
    言葉の真意とは、聴く者の感受性に基づいて見い出されるものです。
    この感受性は、教えることができません。
    それは、知識ではなく、感性だからです。
    挿話
    多くの弟子達の前で、仏陀は講話を語り終えると、沈黙した。
    その沈黙と共に一人の弟子、マハカーシャパが笑った。
    その男に一輪の花を手渡すと仏陀こう言った。
    「語られるのものはすべて語った。語りえないものは彼に与えた。」と。
    これは、マハカーシャパの笑いとして伝えられています。
    彼の名前は伝えられたが、彼の教えは伝えられていません。
    語りえないのもは伝えようがないからです。
    すべてを語ったとしても常に語りえないものが残っていませんか?
    言葉は体験そのものではないという単純な理由から、
    語られた言葉が体験をもたらすことはありません。

    手渡された一輪の花は、マハカーシャパにとっては何の意味もありません。
    真意に到達した者にとって意味があるのではなく、
    真意に到達しなかった者にとってそれは意味があるのです。
    語りえないものは、どうやって伝わるのかを示すために、
    あえて一輪の花を彼に手渡したのです。
    それは他の者にとっての道しるべにほかなりません。
    語りえないものは、自らの内にしか見出せないのです。
    言葉はそこに至るための方向性に過ぎないのです。

    普通は、真理の探究などするわけではないので言葉をそこまでとらえる必要はありません。
    心を傾けて聴くとは、相手の心を推し量るということです。
    感受性によって得られたものを、想像力によって発展させて推理していきます。
    豊かな感受性を育んで、体験を積むよりほかにないでしょう。
    話し方の中で一番難しいのがこの聴く力です。
    だから、話し方教室では教えません。

    聴くことは、まずは楽しむことです。
    理解はいずれ笑いと共に訪れるでしょう。

    喜びの中にこそ発見はあるのです。
    タマちゃん、言葉の旅を楽しんでくださいね。
                        ねこちゃんより



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